更新日 2002-12-30

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  スオル・チェチリアのカトリックあれこれ
イタリア語の聖書的言い回し

 各国の言語の言い回しや諺には、やはりその国の歴史を通しての文化的、宗教的背景が強く現れているものです。したがって日本語のそれには、仏教や神道あるいは儒教などの教えや、日本及び中国の歴史的故事などに由来するものが数多く見られます。それと同様にキリスト教を地盤とする国の言語の言い回しには、やはり聖書にルーツを持つものが多数あります。そこで今月号と来月号の2回にわたって、イタリア語の言い回しの中から特に聖書に由来するものをいくつか取り上げてみることにします。
 
Amen アーメン
「然り」の意のヘブライ語。キリスト教典礼にも取り入れられ、祈りの終わりに唱えられるようになりました。やがて一般の事柄に関しても、何かが終わる、何かを中止する、あるいは何かに関する結論的なニュアンスの表現としても用いられるようになりました。今日でも話や議論、その他、事柄を締めくくる言葉として用いられます。
・giungere all' amen アーメンにたどり着く - 終わりになる。
・essere all' amen 終わり、結論である。
・in un amen アーメンと言っているうちに - たちまち、一瞬のうちに、とても早い、急いでの意。ダンテ・アリギエリ(イタリアの詩人 1265-1321)が『神曲』の地獄篇16章88節で、急テンポで展開する出来事の感じを与える表現として、この「アーメン」という言葉を使って以来、非常に速いスピードで行われる何かを表現する言葉として使われるようになりました。

Arca 櫃(ひつ)、(ノアの)箱舟
イタリア語でarcaとは様々な形や大きさの箱や容器のことですが、聖書では、神がノアを大洪水から救うために彼に作らせた箱舟(旧約聖書、創世記6-8節)と、モーセがシナイ山で神から授けられた十戒(同、出エジプト記20章)を記した板を保管していた「契約の櫃」(モーセとその子孫たちが保管)をこの名で呼んでいます。
・come l' arca di Noe' ノアの箱舟のようだ - 神が人間の悪を懲らしめるために大地を洪水の中に沈める前に、義人のノアを救おうと彼に作らせた箱舟には、洪水のあと生き残って再び地上で繁殖していけるように、色々な種類の動物や鳥類のつがいも乗せました。そのことから、雑多な種類の人間や動物達が群がっているところを比喩的に表わす表現です。

Bibbia 聖書
キリスト教の原点である聖書は、モーセ時代の神の人に対する契約を記した旧約聖書46巻と、キリスト降誕後の神の啓示を記した新約聖書27巻から成っています。
・fare insieme una Bibbia 二人合わせて一冊の聖書 - この表現は現在ではほとんど忘れられて使われませんが、面白いニュアンスの表現ですので挙げてみました。上述のように聖書は非常に異なるディメンションの新旧両約から成っていることから、年齢差の大きい一組の夫婦のことを言っています。

Caino カイン(人名)
カインは旧約聖書、創世記4章3-6節に出てくるアダムとエヴァの二人の息子の、上の方の名です。兄カインは農耕に、弟アベルは牧羊をしていました。神が、二人の中でより寛容で私心が無いと見ておられた弟アベルの捧げもの(子羊の犠牲)の方をより気に入ったことを示された時、カインは嫉妬し、弟を殺しました。そこで神はカインを呪い、誰にもそれが「兄弟殺しをしたカイン」だと分かるように彼にはっきりした印をつけ、一生良心の呵責に苛まれて地上をさまよわなければならない刑につけました。このことからカインは、破滅に導く裏切りや悪事、人間の欲情などのシンボルとなりました。
・andare ramingo come Caino カインのようにさまよう - 兄弟殺しのために神から呪われたカインのように、自分自身の犯した罪のために皆から放逐されることを言います。広義では、良心の呵責に苛まれて生きること、また反対に、罪なく偏見及び同種のことで皆から追われることも意味します。
・offerta di Caino カインの捧げもの - 義務あるいは利害関係から、いやいやながらする誠意のない捧げもののこと。
・segno di Caino カインの印 - 処罰の切断や、赤く焼いた鉄で皮膚の上に焼きつける印を指しました。各時代の法律に従って大罪人に対して施された、公的に認められた刑罰でした。広義では恥辱の刻印。
・occhio di Caino カインの目 - (稀な比喩ですが)月、特に周囲に輪のかかった月のことを指します。民衆伝統ではカインは月に追放されたとすることから。

Calvario カルワリオ(地名。キリストが十字架にかかった丘の名)

・essere un calvario カルワリオだ - 最後に十字架磔刑の待つカルワリオの丘(別称ゴルゴタの丘)に至るまで、キリストは心身共に連続的な苦痛を受けられたことから、長く苦しい何かの出来事や病気、苦しみに満ちた生活など連続的な苦痛を比喩的に表現しています。

Via Crucis 十字架の道行き
カルワリオに関連して、ラテン語のヴィア・クルチスという言葉も、順不同になりますがここでご紹介しておきましょう。ヴィア・クルチスは、裁判、死刑の判決、そして十字架上で死に至るキリストの受難の行程を14の留(りゅう=キリストの受難図の場面)にわたって黙想しつつ祈る、カトリック教の信心行の一つです。そこでこの言葉も先のカルワリオ同様に、苦しみ、不幸、妨げ、困難などの連続を表現するのに使います。また、しばしば公務事業に於いて、官僚政治的手続きのために浪費した時間や労力のことなどを言うのにも使う比喩的表現です。

Figlio prodigo 放蕩息子
ルカ福音書15章11-32節のたとえ話で、主人公である裕福な家庭に育った一人の若者が、家庭での単純な生活に辛抱できずに、ある日父親に遺産の分け前を要求し、生家を捨てて放蕩生活にふけります。ですが持っていた金が尽き果てたとき、彼は貧困に陥り、食べ物にも事欠き、賎しい仕事に従わなければなりませんでした。若者はそこで、自分の生家の使用人たちは今の自分よりもずっと優遇されていたことを思い出し、ついに家に戻ることを決心します。父親は放蕩の限りを尽くした果てに、乞食のような姿で帰ってきたこの息子を愛情を持って迎え、まるまると太った子牛を殺して息子のために大宴会を準備しました。このことから、喜ばしい出来事、特に親しい人の思いもかけなかった帰還などを豪勢に祝うこと、あるいは、道楽にふけった挙げ句に後悔して、以前受け入れなかったことを再評価して正しい道に戻った者のことなどを言います。後者の場合は、しばしば皮肉を込めた、あるいはおどけた意味での表現になります。

Giuda ユダ(人名)
聖書によれば、「イスカリオテ」と呼ばれていたユダはキリストの12人の使徒団小共同体の財務管理を任されていました(福音書、マタイ26・47-49、マルコ14・43-45、ルカ22・47-48参照)。このユダは銀貨30枚と引き換えにイエスを敵に渡すことを買って出、イエスを捕えるために長老会議会から送られた兵士たちが来た時、彼らにそれがイエスであることを分からせるためにイエスに接吻しました。やがてユダは師イエスを裏切ったことを後悔して、見返り金として受け取っていた金を神殿に投げ入れた後、首吊り自殺をします(マタイ27・3-5。ただし、使徒言行録1・18にもユダに関する後日談がありますが、ここには自殺とは書かれていません)。
・bacio di Giuda  このことから裏切り行為、相手の愛情を欺く呪うべき行為を「ユダの接吻」と言います。
・fare la parte di Giuda ユダの役をする、演じる - 誰かを裏切ること、あるいは反対に、誤って不正に裏切り者と思われることを指します。

Olivo オリーブの木
・portare il ramo d' olivo オリーブの小枝を持って行く、来る - 旧約聖書、創世記6-8章(前述ノアの箱舟の項参照)のノアの洪水物語に由来する表現です。鳩がくちばしにくわえて持ってきたオリーブの小枝は、大洪水が終わったこと、すなわち神は人類と和解したことをノアに分からせたことから、「平和のシンボル」となりました。このことから、平和の知らせや企画を伝えること、あるいは平和に関する望みを提示したり、平和実現のためにすすんで労力を提供することなどの行為を指します。

Pagliuzza わら屑、おが屑
・guardare la pagliuzza nell' occhio altrui 他人の目の中のおが屑に目をつける - マタイ福音書7・3、及びルカ6・41にある“Perche' stai a guardare la pagliuzza che e' nell' occhio di un tuo fratello, e non ti preoccupi della trave che e' nel tuo occhio?”「あなたは、あなたの兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか?」というイエスの言葉から、他人の欠点を非難して自分のそれに目を向けないことを言います。広義では、些細なことを取り立てて、重大な誤りに気がつかないことを意味します。日本の諺「人の一寸我が一尺」「遠きを知りて近きを知らず」に相当します。

以下、次号に続きます)


Sr. Cecilia Inomata